山本太郎「問責決議案」棄権とその撤回をめぐって

 渡辺一夫の言葉を借りて山本太郎「問責決議案」棄権問題を考えて見よう。安倍晋三一味を説得しようとする人は尊敬に値する。説得が本物なのかどうか。形式だけではないとしても、いつまで説得し続けるのか。国会外と国会内の声はつながっている。国会のルール(事情)で、国会外での声とつながらないときどうするのか。

「寛容(民主主義)と不寛容とが相対峠した時、寛容(民主主義)は最悪の場合に、涙をふるって最低の暴力を用いることがあるかもしれぬのに対して、不寛容(ファシズム)は、初めから終りまで、何の躊躇もなしに、暴力を用いるように思われる。今最悪の場合にと記したが、それ以外の時は、寛容(民主主義)の武器としては、ただ説得と自己反省しかないのである。従って、寛容(民主主義)は不寛容(ファシズム)に対する時、常に無力であり、敗れ去るものであるが、それは恰もジャングルのなかで人間が猛獣に喰われるのと同じことかもしれない。ただ違うところは、猛獣に対して人間は説得の道が皆無であるのに反し、不寛容(ファシズム)な人々に対しては、説得のチャンスが皆無ではないということである。」
「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容たるべきではない。」渡辺一夫『狂気について』所収( )内は引用者の挿入。

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