ご参考、10月19日読書会レジュメ

 1.そもそも「陰謀論」とは?

 △「陰謀」の字義
  広辞苑(六版) :ひそかにたくらむはかりごと。謀叛の計略
  新明解(三・五版):人に知られないようにこっそり企てた、よくない計画。法律では二人以上でする犯罪計画を指す。
 △陰謀論:「論」がつくと、「conspiracy theory」の訳語となり、意味は一種のイデオロギーとして大きくジャンプする。
  陰謀論(ブリタニカ):社会の構造上の問題を背後にひそむ個人ないしは集団の陰謀のせいにすること。一般に複雑な歴史過程を分析して、変化の動因を探ることはむずかしい。逆に特定の人間ないし人間集団の陰謀によって大衆を操縦するために、しばしばこの陰謀論がとられることになる。ナチはドイツの悲運の責任をユダヤ人や共産主義者の陰謀のせいにして、巧みに大衆の怒りをかきたてることに成功した。陰謀論は一種のイデオロギー批判ではあるが、この批判自体が社会や政治を神秘化するイデオロギーなのである。
  陰謀論研究家・海野弘明氏の見方:別紙・A

 2.陰謀論の〈仕分け〉

 A.陰謀論(的)として一定期間に流布していたものが、事実そのものとなる事例。この場合、論理的には当初の陰謀論は直ちに消滅する。事例としては「イラク大量破壊兵器存在説」
 B.被害妄想的な心理が拡大・拡散して陰謀論として存在感を持続する事例。陰謀論に否定的立場の論者は、この見方を逆用し、ほとんどの陰謀論を虚偽だとする。
 C.陰謀論的な説明が諸状況の個別的事件や証言と合致することが多いが、決定的証拠はなく、元の陰謀論が肥大化していく事例。
 D.陰謀論的解釈が、通史的な事実関係や状況的な事柄と符合して、グレーゾーンのまま陰謀論が存在し続ける事例、ただし、Cと違って肥大化しない。決定的証拠はなく、むしろ客観的研究を総合すれば、元の陰謀論が疑わしい可能性が高い。具体例としては、アメリカが日本軍の真珠湾攻撃を事前に知っていたが防御策をわざと講じず、参戦の口実に利用したとする見方がこれにあてはまる。
 現実に存在する陰謀論は、A~Dの混合である場合が多い。

 3.陰謀論の個別的事例について

 △911アメリ同時多発テロ」事件について

 △陰謀論の原型構造としての「フリーメイソン陰謀論」について

 △日本の代表的陰謀論
 A.過去の陰謀論的解釈としての代表例・本能寺の変

 B.現代の陰謀論の典型事例としてのJRA陰謀説

 別紙・A(『陰謀の世界史』プロローグより)

 <コンスピラシーとはなにか>
 さて、コンスピラシーとはいかなるものか。コンは共に、一緒に、という意味で、スピラシーは息をする、というのが元の意味だといわれる。なぜ一緒に呼吸することが、陰謀、つまり秘密で、悪いことを企むことになるのか。スピラシーは、スピリットからきている。スピリット(息、精神)には酒という意味もあり、中世の錬金術では魔法の液体のことであった。見えない精神、魔法の液体といった秘密めいた空気がそこに漂っているのかもしれない。コンスピラシーが悪い企みとなるには、コンという接頭辞によるのだろう。コンは、共に、でもあるが、コントラ、つまり反対する、の略でもある。
 以上のようなプロセスで、コンスピラシーは一緒に息をする、心を合わせるという意味から、共謀することになり、コン(反対する)という意味が重ねられ、悪いこと、秘密のことの企み、の意味になっていったのではないだろうか。
     (中略)
 ドン・デリーロは、なぜか日本で紹介が少ないが、アメリカで注目されている作家である。『リブラ 時の秤』は、ケネディ大統領暗殺事件をテーマに、その犯人とされるリー・オズワルトを主人公とした問題作である。ここに出てくるニコラス・ブランチは、CIAの元上級情報分析官で、ケネディ暗殺事件に関する秘史の執筆を委嘱されている、ということになっている。そして与えられた部屋で、もう15年も仕事をしているが、いつ完成できるのかわからない。
 この作品の一節は、コンスピラシー・セオリー(陰謀史観)の原則を鮮やかに語っている、と私には思える。私がその基本構造と考える2つの原則をあげておきたい。
 第一の原則は、この世のすべてのものはつながっている、というものだ。あらゆるものがつながって、蜘蛛の巣(ウェブ)、網(ネット)をなしている。したがって、どんなつまらないものにも(秘密の)意味があり、落とすことはできない。ユダヤ人、フリーメイソン、宇宙人、CIAとさまざまな陰謀論があるが、結局、それらはすべてつながっている、というのが陰謀史観である。そして、すべての陰謀は、究極の、唯一のマスター・プランにたどり着く。まったくかけはなれたものを、いかに結びつけるかが(陰謀論者の)腕の見せどころである。
 2つ目の原則は、陰謀史観にとって、すべてのものは、今という1つの時しか持たない、というものだ。すべてが今の瞬間のためにある。たとえば、何千年も前の古代エジプト人のコンスピラシーが、まったく失われもせず、変化もしないで、今に生きている。変化もなく、今しかないのだから、セオリーを史観と訳すのは適当でないかもしれない。
 二つの原則は、同じことをいっているのかもしれない。あらゆるものがつながっていて、意味がある。その意味は、あくまで今を説明するためのものである。
 コンスピラシー・セオリーの面白さは、これらの原則からきている。なんでも結びつけて、あるセオリー、秘密の意味を読むことができる。特に、20世紀末になって、陰謀のネットワーク化、グローバル化が進み、全体的、体系的な構図が整備され、まとめられるようになってきた。
        (中略)
 コンスピラシーにおいて、コンスピレーター(陰謀者)とセオリスト(陰謀解読者)が対立している。セオリストは陰謀を企む<彼ら>をあばく。セオリストの<彼ら>への態度により、セオリーも変わってくる。<彼ら>の存在を本気で信じ、激しい敵意を燃やす者から、そうだったら面白い、という想像を楽しむものまである。信じる人から、半信半疑で面白がるマニア、そして、そのセオリーに断固反対する人までいる。コンスピラシー・セオリーを政治や思想として受け取って賛成か反対かを表明するか、文化として、たとえばSFでも読むように楽しむか、という両極がある。
 セオリストがなんのためにその説を立てているかにも注意しなければならない。なぜユダヤ人やフリーメイソンを攻撃するのだろうか。<彼ら>に反対する勢力に頼まれているのだろうか。その時は、セオリーは、陰謀をあばくだけでなく、自ら陰謀になっていることになる。
 陰謀論はおどろおどろしく、時には荒唐無稽である。それにもかかわらず、私はそれにひかれる。なぜなら、その説がたとえナンセンスであろうと、それを信じ、それをかつぐ人がいれば、やはり、ある意味を持つからである。